生きる価値のない人間。

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ニュースなどを見て既にご存知の方もいらっしゃるだろうが、2人の高校生が道路にロープを張り、バイクで通行中の77歳の女性に重傷を負わせると言う事件が起きた。

この愚かな高校生2人は殺人未遂で逮捕されたが、本人たちは殺人の意思はなかったとしている。

だが2人は被害者の女性がバイクで通り掛かりロープに引っかかって転倒するのを近くから見て楽しんでいた。高校生ともなれば車道に張られたロープが原因で大きな事故になり、被害者が命を落とす可能性があることも充分予測可能である事は明白だ。

そもそも人が事故に遭い大怪我をするのを見て楽しむとゆうのは、ある意味単純な殺人よりも救いようがなく残酷なことであると言えるのではないか。

この2人は高校生であることを理由に4名も公表されず、重い刑罰も課せられる事はないだろう。しかしながら、高校生とはもはや未熟な年齢ではない。ほとんどの高校生は善悪の区別が理解できる。にもかかわらず、彼らは未だ未熟だと言う理由で罰を課せられる事は無い。

しかしながら現実は違う。今回の事件を起こした高校生2人は、自分たちの起こした行為が悪であると確実に理解しながらそれを楽しんでいたのだ。悪なる行為が愉快であると感じる者の中には、確実に大いなる悪が住み着いている。

このような悪に支配された愚かな人間たちを保護するべきだと言う意見は、無意味であるばかりでなく有害でさえある。

確かに悪は誰の中にも存在する。しかし彼らの悪を育てたのは一体何だったのか。人類が文明を築いてから2000年以上もの間、悪は途絶えることなく存在し続けた。

人々の心に平等に撒かれた善と悪の種。

しかしながらその育ち方には違いがある。

悪の種を育てるものは何なのか。善の種を腐らせるものは何なのか。

問いを捨ててはならない。悪に怒りを持たねばならない。

怒りを忘れてはいけない。

怒りはいつか、善のための力となる。

その時のために怒りを持ち続けなければならない。

その時はやってくる。

怒りを解き放つ時がやってくる。

その時までは、じっと耐え続けなければならない。

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